その後、一家は京都には行かず、縁をたよって上総の田舎に居をかまえた。徂徠はその後も学問に励み、江戸に出て豆腐屋の裏長屋で儒学を教えるようになり、その学識と才能をかわれて、時の筆頭老中(今の総理大臣にあたる)柳沢吉保に召しかかえられた。柳沢のもとにはすでに20人余りの儒学者がいたが、徂徠もその一員に加わったのだ・・ところが、徂徠は当時の主流であった朱子学に異を唱え、孔子、孟子にもどり、唐音で従頭直下(頭から読み下すこと)を旨として、仲間や弟子ら数人で勉強会を開きだした・・このあたりは、いま話題となっている日本学術会議の問題と同じような、政治家と官僚と学者との争いのような感じがしないでもない・・さあ、どうする。どうなる徂徠!